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レポート Report

誰の賃金が伸びているのか?

我が国の賃金は、バブル崩壊後の1990年代後半以降、2020年代初頭に至るまで20年以上にわたり「上がらない」状態が続いていた。しかし、コロナ禍以降の物価上昇や構造的な人手不足の顕在化、政策的な後押し等を背景に賃金が上がり始め、2023年頃から賃金環境は大きな転換点を迎えている。

賃金の伸びを議論するとき、通常は平均的な賃金の動向が注目される。例えば春闘の賃金の伸び率では、経済全体や企業全体の平均的な伸びに注目する。しかしながら、平均的な賃金伸び率が高まったとしても、個々人の伸びに大きなばらつきがあれば、結果として所得格差の拡大につながる可能性もある。

そこでこのレポート[1]では、昨今誰の賃金が伸びていて、誰が伸びていないのか、検証してみたい。厚生労働省『賃金構造基本統計調査』の2064歳の正社員・正職員を、性・年齢階層・学歴・業種・企業規模・地域の6つの属性に基づいて650程度[2]のグループに分け、グループごとに物価の影響を除いた賃金[3](以下、単に「賃金」と呼ぶ)中央値の対前年伸びをこのグループの「賃金伸び率」と定義[4]した。

伸びの分析では、以下の2つの視点を用いる。

1.ベアの伸び:同じ年齢、同じ属性同士を比較し、年齢を重ねることによる「定期昇給分」や昇進・加給の影響を除いたベア(ベースアップ、企業が従業員全体の給与を一律に引き上げる部分)の伸びを計測。

2.コホートの伸び:生まれ年が近いグループを時系列で追跡し、定期昇給を含めた個人の実際の給与伸びを擬似的に追跡。

伸びの分布と日本型雇用の変容

図表1は90年代前半以降のベアとコホートの伸び(年率換算)の分布を示す。ベアの伸びの分布は釣鐘型(正規分布に近い形状)を描き、山の位置は90年代後半以降、0%付近にとどまっていた。つまり、全体のおよそ半分のグループで賃金は物価を上回る伸び、半分で物価を下回る伸びであった。直近の24年は、山がプラス圏内にシフトし物価を上回る伸びのグループが増えている。

90年代以降、コホートの伸びの山は低い方へのシフトが続いた後、直近の24年に2000年代前半頃の位置に戻っている。

図表1 年代別にみたベアの伸び、コホートの伸びの分布

 (出所)神林・上野(2026)

2010年代までは、コホートの伸びの中央値は、ベアの伸びよりも1%ポイント強高かった(図表2)。この差は、日本型雇用慣行の下での「定期昇給分」の平均的効果に相当する。2020年以降になると、両者の乖離(定期昇給による上乗せ幅)が縮小している。こうした変化は、近年定期昇給制度の持つ賃金押し上げ機能が減退し、勤め先のベアは伸びても、年齢などの属性によっては逆に賃金が上がっていない人が増えている可能性を示唆している[5]

図表2 ベアの伸びとコホートの伸び(199120072024年)

(出所)神林・上野(2026

生まれ年別にみても、同様に近年の変化がうかがえる(図表は省略)。1950年代・1960年代生まれ(現在50代後半以上)ではキャリアを通じて、ベアがゼロの厳しい局面であっても、平均的にみて約1%の定期昇給分が底固めとして機能していた。また、ベアが高い時期・属性においては定期昇給がやや抑えられ、逆にベアが低い時期・属性においては一定の定期昇給が確保されるという、賃金変動の自動安定化メカニズム(定期昇給によるバッファー機能)が一定程度、機能していた。これに対し1980年代生まれ以降(現在40代半ば以下)の若年世代になるほど、日本型雇用特有の「ベアの低迷を定期昇給で緩和する」という平滑化機能が弱まり、市場の需給圧力や企業の業績格差が、個人の実際の賃金伸び率に直接連動する度合いが強まっている。

賃金の伸びの違いはどんな要因で生まれているのか

雇用者間の賃金の伸びの違いは、大別すると属性(グループ分けの基準として用いた6つの属性)間の違いと、同じ属性の雇用者の間での違いに分けられる。

そこでまず、賃金の伸びの分散(ばらつき)を計算し、そのうち属性間の伸びの違いの寄与がどの程度なのか、変化を追ってみよう。

2006年から2010年代末にかけて、賃金伸び率の分散は縮小傾向をたどった一方、「属性間の賃金伸びの違いに伴う寄与」はほぼ横ばいに推移していた(図表3)。したがって、このばらつきの縮小は、属性間の差が縮まったからではなく、同じ属性の人たちの賃金伸びのばらつきが縮小したことによってもたらされたことがわかる。2010年代は有効求人倍率が上昇し、人手不足が顕著になった時期である。本来の市場メカニズムであれば、人手不足度合いに対応して、例えば職種間での賃金の伸びのばらつきは拡大するはずである。しかし実際には、ゼロ近傍の賃金伸びに全員が収れんし、需給動向の違いが賃金伸び率に反映されにくい「上がらない賃金構造」が広く定着していたことがうかがえる。

2023年以降になると、賃金伸び率の分散は急激に上昇に転じ、2024年には2006年の水準を上回るレベルとなった。この分散拡大は、「属性間の賃金伸びの違い」による寄与が拡大したことが主な要因である。属性別には、「企業規模間」と「地域間」の2つの属性が分散拡大の大部分を説明している。対照的に、性・学歴・業種・年齢間の寄与度は相対的に小さい。コロナ禍後の世界的なインフレと景気回復局面において、収益性が高まった大都市圏の大企業が人材確保と物価高対応のために大幅な賃上げを進めた一方で、原価転嫁の遅れや収益性の改善が追いつかない地方部や中小企業との間で賃上げ体力・余力の格差が開いたことなどが指摘されているが、こうした指摘と整合的な結果である。収益性の改善が広がるなかで、後者の賃金の伸びが前者に追いついていかないと、今後の賃金水準差につながっていくことが懸念される。

図表3 賃金伸びの分散(2006年と比べた変化)

(出所)神林・上野(2026

賃金伸び率の違いは、賃金水準差にはどう影響したか

こうした賃金伸び率の違いは、所得格差(賃金水準の分布)にどのような影響を与えてきただろうか。過去20年間の賃金水準と賃金の平均的な伸びの関係は、大まかにみると、2006年時点で時給2000円(額面ベースで受け取る額が月36.4万程度)以下であったグループでは、賃金水準が低いほど伸びが高い負の相関関係がみられ、時給1500円(同、月27.3万程度)以下はおおむねプラスの伸びとなっている。実質時給が2000円を超えると、伸びは年率で▲0.6%程度(2006年と比べて24年は10.3%程度の賃金水準の低下。物価水準は同期間中16.2%上昇)までのマイナス圏内に分布している。最低賃金の積極的な引き上げ等政策の波及効果もあり、こうした賃金伸び率の傾斜は、高賃金層の伸びを抑え低賃金層の伸びを高める形で働き、賃金分布の上下双方から格差を圧縮(縮小)させる方向に機能していた。

次に、賃金水準と賃金の伸びとの関係をより詳細にみるため、代表的な高賃金属性である「大卒男性」および低賃金属性である「高卒女性」について、2024年時点の賃金水準と伸び率(属性で説明できない部分)の関係を確認すると、賃金水準が中央値よりやや高いゾーン(大卒男性では時給2,0002,600円付近、高卒女性では1,3001,500円付近)において、賃金の伸びが極端なマイナスとなっている。一方、中央値以下や高賃金層(大卒男性で時給3,000円以上など)においてはプラスの伸びとなるケースが多い。

こうした傾向は、近年顕著になってきている。すなわち、最近は低賃金層の底上げが進む一方で、中上位層の賃金上昇は停滞、最上位は相応の賃金伸びとなり、賃金分布の右側(中所得以上)における二極化・格差拡大の兆候が示唆される。なお、勤続年数別に詳細にみると、年功的な企業特殊熟練に対する評価の変化が、こうした中上位層の伸び悩みに関与している可能性が考えられる。具体的には、勤続年数でみて10年以上25年以下の中堅層で、勤続に伴う賃金の伸び方が鈍化しており、従来と比べて、既にみたような定期昇給の役割の低下や、勤続に伴う昇給の機会の減少が示唆される。

こうした結果からどのような政策が必要と考えられるか

足元(24年まで)の賃上げの勢いは大都市圏の大企業が主導しており、規模間・地域間の格差が拡大している。したがって、今後の労働政策・経済政策においては、単にマクロの平均賃上げ率を目標とするのではなく、賃上げ体力が相対的に乏しい中小企業や地方の企業に対する、価格転嫁や生産性向上に向けた積極的な支援を重点的に講じ、賃上げの波及効果の「裾野」をどこまで広げられるかが重要課題となる。

また、雇用者の属性別には、賃金水準が中上位ゾーンにある雇用者の賃金伸び悩みは、中間層のモチベーション低下や購買力の伸び悩みに直結する。年齢を重ねることに伴う所得増が当然なことではなくなってきており、企業の給与体系の見直しも進むなかで、職務・タスクに応じた適切な評価体系への移行や、人的資本投資・リスキリングを通じた生産性向上の仕組み作りが求められる。

最後に、これまでの議論の課題に触れたい。これまでみてきた賃金の伸びはグループの中央値の伸びに過ぎず、個人のパフォーマンスの違い、転職行動や職種変更、個別の企業業績変化といった動向を考慮できていない。我が国において、賃金の動態や所得格差のメカニズムをより精密に解明し、効果的な政策につなげていくためには、諸外国と同様に、同一の個人の賃金を長期にわたり追跡可能な大規模パネルデータや行政記録データの利用環境の早期整備が強く期待される。


[1] 本稿の議論は、神林・上野(2026)「賃金伸び率のばらつきの動向」ESRI Discussion Paper Series No. 407に基づいている(https://www.esri.cao.go.jp/jp/esri/archive/e_dis/2026/e_dis407.html)。また、図表の出所はいずれも神林・上野(2026)である。
[2] 構成の変化による賃金水準の変化の影響を避けるため、グループに含まれる雇用者数が毎年100を超えるグループに限定して中央値の伸びを求めた。
[3] 月給(所定内給与)と労働時間(所定内労働時間)を用いて時給換算した値。
[4] なお、今回の分析結果から得られた賃金の伸びは、「同じ特徴を持った雇用者にとっての賃金の伸び」であり、報道等で見聞きする「雇用者全体の平均賃金の伸び」とは異なる点に留意されたい。
[5] 神林・上野(2026)では、年齢以外に、性差・学歴差によっても同様の可能性があることが示されている。

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