2023年9月25日
金融市場のコンピュータ・シミュレーション”人工市場”へかかる期待
金融市場は複雑系
ゲーム理論・オークション理論の大家であるMcMillanは市場の歴史を紐解き、市場は高度に複雑系のシステムであると述べた[1]。複雑系はその文字通り複雑であり、数式だけを用いてきれいに表されるような単純なシステムではない。同じく複雑系である気象システムでは、バタフライ効果という言葉が示すように、蝶が羽ばたくという極めて小さな動きがどのような影響を与えるかを正確に述べることは難しく、台風を生み出すことさえ完全には否定できない。
既存の経済学:複雑系をうまく取り扱えなかった
それにも関わらず、既存の経済学は金融市場の動きをきれいな数式だけで表現しようとした。その結果、2008年の金融危機では何が起きているか表現できなかったと多くの批判を浴びた。そもそも金融市場は複雑系であり、きれいな数式だけで表現できるシステムではないのだ。既存の経済学は、きれいな数式で理路整然と”正しく間違った”と言えるだろう。そして、後述する人工市場(エージェント・ベースド・モデルによる金融市場のコンピュータ・シミュレーション)は、複雑系を複雑なまま取り扱い、きれいではないが、正しく理解できる可能性を持つものとして期待が高まった。
既存の経済学を批判し人工市場への期待を述べた論考は、学術論文誌の最高峰であるNatureやScienceにも登場し、当時のTrichet欧州中央銀行総裁もスピーチで取り上げ、Bookstaberによる書籍[2]も話題をよんだ。
エージェント・ベースド・モデル:複雑系を複雑なまま扱える手法
複雑系を複雑なまま扱える手法であるエージェント・ベースド・モデルは、比較的単純なルールで行動するエージェント(人間や自動車などをモデル化したもの)をコンピュータ上に作成し、複数のエージェント間の相互作用を通じて全体としては複雑な現象を出力するコンピュータ・シミュレーションである。個々のエージェントは単純なルールで動いていたとしても、全体としては複雑な現象を見せる、まさに複雑系システムを表現できる手法なのだ。
例えば鳥の集団は、一匹一匹は隣の鳥にぶつからないように間隔をあけて飛んでいるだけだが、全体としては複雑できれいな模様に見えることもある。この現象も以前は個々の鳥が高度な行動をしていると考えられていたようだが、エージェント・ベースド・モデルを用いることにより、単純な反応が高度な集団行動(マクロ現象)を産み出しうることが解明された。このような鳥の集団が全体として見せる模様も複雑系による産物であり、きれいな数式だけでは決して説明できない。
エージェント・ベースド・モデルは、自動車道の整備計画時や新築ビルの避難計画、混雑する場所の誘導方法、新型感染症流行時の行動要請計画など、多くの分野で活躍している。ノーベル経済学賞を受賞したSchellingはエージェント・ベースド・モデルを用いて、人種ごとに住む地域が自然と分離する理由を説明した[3]。異なる人種同士が嫌いでなかったとしても、自身の家が他の人種の家に囲まれてしまうことをなんとなく避けようとするだけで居住地域が自然と分離することを示し、大きな衝撃を与えた。
人工市場:金融市場をシミュレーションするエージェント・ベースド・モデル
人工市場とは、エージェント・ベースド・モデルを用いてコンピュータ上に金融市場をシミュレーションするものだ。コンピュータ上で架空の投資家の行動をシンプルにモデル化し、エージェントと価格の相互作用により、複雑な価格変動を出力する。
先述のMcMillanは、細部の規制やルールが市場全体に大きな影響を及ぼすとして、市場においても”神は細部に宿る”と述べた[1]。まさにバタフライ効果である。1920年代の世界恐慌は米国の個人投資家が借金をして元手の10倍の額の株式を買うという、いわいるレバレッジ10倍で投資していたことが恐慌を大きくした。もし、3倍程度に規制していたら、世界恐慌はもっと緩やかなものであったかもしれないし、これが原因で台頭した全体主義も台頭せず、悲惨な戦争が回避できた可能性もあったかもしれない。これは大げさな話ではなく、金融市場の細部のルールが人類に甚大な影響を与えうる、まさに複雑系なのだ。そして、既存の経済学では複雑系を議論できない。人工市場だけが複雑系を議論できるのだ。
活躍し始めた人工市場
これまで人工市場を用いた研究により、金融市場の基本的な性質を巡る議論、規制やルールのデザイン、適切な財政・金融政策の在り方、注文生成AIによるアルゴリズム取引の試験などが行われてきた[4]。
金融市場の基本的な性質の議論としては、リターンの分布がランダムウォークで予想される正規分布からずれている理由や、バブルや金融危機が起きる条件などが研究された。
規制やルールの議論としては、レバレッジ規制や空売り規制など、さまざまなものが研究された。2014年に東京証券取引所で行われた10銭刻みへの呼び値変更においては、あらかじめ人工市場による調査が行われ、実際の変更に際して参考にされた。
財政・金融政策の重要性は言うまでもない。しかし、人工市場による事前の検証はほぼ行われておらず、思わぬ副作用に見舞われたり、目標とはまったく異なる結果を招いたりしている。人工市場が最も使われなければならない分野であり、多くの研究者が参入することが期待される。
そして最近、人工市場に注文生成AIエージェントを導入し、アルゴリズム取引の事前試験を行おうとする研究も現れ始めた。まだ実用化には至ってないが、研究の進展は速く、実用化される日も近いかもしれない。一方で、人工市場で訓練されたAIトレーダーが真っ先に学習した投資戦略が相場操縦であったという研究もあり、懸念も浮上している[5]。
人工市場へかかる期待
人工市場は、複雑系を複雑なまま取り扱い、きれいではないが正しく理解しようとする。泥臭いが、きれいに正しく間違ったりはしない。2008年の金融危機以降、期待が高まっている人工市場であるが、研究者がまだまだ少ないこともあり発展途上にある。人工市場の研究者が増え発展し、細かい部分の議論を積み重ねて、バタフライ効果となって、社会に大きな恩恵をもたらすことに期待したい。
本稿は著者の所属組織の公式見解を表すものではありません。すべては個人的見解であります。
[1] JOHN MCMILLAN, “REINVENTING THE BAZAAR”, A NATURAL HISTORY OF MARKETS, WW NORTON & COMPANY, 2002, (邦訳:瀧澤弘和、木村友二、“新版 市場を創る-バザールからネット取引まで”、 慶応義塾大学出版会、2021)
https://www.keio-up.co.jp/np/isbn/9784766427837/
[2] RICHARD BOOKSTABER, “THE END OF THEORY: FINANCIAL CRISES, THE FAILURE OF ECONOMICS, AND THE SWEEP OF HUMAN INTERACTION”, PRINCETON UNIVERSITY PRESS, 2017 (邦訳:長尾慎太郎、井田京子、”経済理論の終焉 金融危機はこうして起こる”、PAN ROLLING、2019)
https://www.tradersshop.com/bin/showprod?c=9784775972373
[3] THOMAS C. SCHELLING: “MICROMOTIVES AND MACROBEHAVIOR”, W. W. NORTON & COMPANY, 2006 (邦訳: 村井章子、”ミクロ動機とマクロ行動”、勁草書房、2016)
https://www.keisoshobo.co.jp/book/b251669.html
[4] 参考になる主な文献として以下の3つをあげておく
・高安美佐子、和泉潔、山田健太、水田孝信、”マルチエージェントによる金融市場のシミュレーション”、コロナ社、2020 (第5章が市場制度設計に関する章)
https://www.coronasha.co.jp/np/isbn/9784339028225/
・水田孝信、八木勲、“人工市場による金融市場の設計と広がる活用分野”、人工知能、36巻3号、人工知能学会、2021
https://doi.org/10.11517/jjsai.36.3_262
・水田孝信、“金融市場の制度設計に使われ始めた人工市場”、 スパークス・アセット・マネジメント スペシャルレポート、 2021
https://www.sparx.co.jp/report/detail/305.html
[5] 水田孝信、”人工知能は相場操縦という不正な取引を勝手に行うか? -遺伝的アルゴリズムが人工市場シミュレーションで学習する場合-“、 第34回人工知能学会全国大会論文集、 2020
https://doi.org/10.11517/pjsai.JSAI2020.0_2L5GS1305